ベトナム中部の歴史
【ダナン/Da Nang】
ダナンという地名は、以前ベトナム中部から南部にかけて栄えたチャンパ王国の言葉からきており、大きな川の入り江という意味です。ダナン港がホイアンに代わり商業港として開発されるようになったのは18世紀初頭からです。その後、フランスの植民地となってからは、都市名をトゥーラン(Tourane)と変更され、20世紀初頭にはヨーロッパのスタイルが導入され、社会インフラや製造技術の導入が図られるようになりました。結果、農業生産、小規模工業、輸出向け製品加工(茶、食品、飲料、氷、アルコール、魚醤、乾燥魚)、造船・修理、サービスなどの分野の経済活動が盛んになり、サイゴン(現在のホーチミン市)やハイフォン(北部の主要港)と並ぶ重要な貿易センターになっていったのです。しかし、その後ベトナム戦争が開始されると様子が一変します。1965年には米軍が上陸、ダナンは南ベトナム軍の傘下に組み込まれていきます。戦争が終結し1975年にベトナムが完全に独立すると、ダナンは再興に向けて動き出します。特に1986年のドイモイ政策の採択後は徐々に発展が進み、現在の繁栄につながっていきました。
【ホイアン/Hoi An】
ダナンから約30kmトゥボン川の河口に位置しています。かつては、東南アジア随一の港町として栄えたこの街は1999年に「ホイアンの古い街並み」として、ユネスコ世界文化に登録されました。ホイアンはチャンパ王国(4世紀~)の港としてつくられた街で、16世紀にフエに広南阮氏政権が樹立され、ホイアンを拠点に対外貿易に力を入れたことで国際貿易港として発展をとげました。大航海時代に東南アジア有数の貿易港であったホイアンには中国、日本などアジア諸国に加え、ポルトガル、オランダ、フランスなど欧米諸国からも多くの商人が来航しました。1600年代には日本人街が栄え、その痕跡が来遠橋(日本橋)、日本人のお墓、などに残っています。日本の商人は、銅、銀、硫黄、刀などを当地に持ち込み、生糸、絹、アロエ、乳香、鮫皮、黒砂糖、蜂密などを買いつけ日本に持ち帰ったようです。日本人のお墓は現地の人々のご厚意により綺麗に保持され守られています。現在も、ホイアンのシンボルとして市章に使われる来遠橋は屋根のついた木造の橋で、橋の中には小さなお寺があり、かつて日本人街の入り口にあったため「日本橋」と呼ばれるようになったと伝えられています。江戸時代の日本の鎖国により日本人街が衰退した後、中国人街が中心となり繁栄が続きますが、1771年にグエン朝に反乱したタイソンの乱により街は全焼、現在残る街並みは1800年代以降に建設されたものです。異なる文化を受け入れ発展した異国情緒あふれるホイアンを歩くと、多様な文化を見事に融合させたベトナムの懐の深さを思います。
【フエ/Hue】
ダナン中心部から約100km車で約2時間30分。ベトナム最後の王朝が置かれた地として、紫禁城を模してつくられた王宮や庭園など数々の遺跡が残されています。当時の様子をしのばせる雰囲気に満ちたベトナムを代表する観光地です。宮廷料理やフエならではの名物料理も魅力です。いまのベトナムは北部ハノイに首都を置く南北に長い国土を持つ国ですが、実は一昔前は北部、中部、南部とそれぞれ独自の政権がありました。18世紀まで中部はチャンパ王国と呼ばれる現存している少数民族のチャム族の祖先が政権を担っていました。しかし、チャンパ王国が勢力を中南部に南下させると同時に、中部は阮(グエン)朝が政権の座につきました。グエン朝は、今から200年以上前の1802年、内乱が続くベトナムを統一させる為に、フランスの援助を受け初代王朝(ザーロン帝)が創設しました。その後1945年までの143年間、13代の皇帝にわたって統治されてきました。王宮建設から始まり、各皇帝の個性に合わせた建築様式による寺院や帝陵が今もフエ市内に点在しています。歴代皇帝は、それぞれ価値観も異なり、中には増税や贅沢な暮らしをしていた為、評判が悪かった皇帝もいたそうです。中部フエもまたベトナム戦争の激戦区となりました。最も被害を被ったのは阮朝王宮です。世界遺産に登録されたことをうけ、現在は序々に復元作業を行っています。1802年~1945年の143年の間は、日本では江戸幕府から明治維新、第二次世界大戦があった時代です。
ベトナム第3の都市ダナンは、現在では約100万人の人口を抱える大都市。19世紀、フランスが総督直轄市としてダナンに目を付け、20世紀に入ると急速にインフラが整備されるようになり、ハイフォンやサイゴンと肩を並べる主要な貿易港へと発展していきました。 続いて、米国も重要拠点としてダナンに注目するようになり、1965年には米国海兵隊が上陸し、ベトナム戦争が一気に本格化。 この時代背景は実に複雑で、簡単に説明、理解できるものではないようです。ベトナム戦争が最も激しさを増す1968年には、南ベトナム解放民族戦線がフエやダナン駐留米軍などへ大規模な攻撃を仕掛けた「テト攻勢」が激戦の一つとして知られています。この正真正銘の奇襲攻撃をきっかけに、それまでくすぶっていた反戦の世論が、一気にアメリカ全土で燃え広がり、米軍の「名誉ある撤退」による戦争終結を模索することを余儀なくされるのです。1973年1月29日にニクソン大統領は米国民にベトナム戦争の終結を宣言。米軍が撤退がし、同年7月、南北ベトナムの統一とベトナム社会主義共和国の樹立が宣言されました。北ベトナム側の推定戦死者数は117万7千人、南ベトナム側は28万5千人。そして南北合わせた民間人の死者数458万人以上にのぼりました。戦後ここまで復興し普通の暮らしを手にいれるまで、人々の凄まじい努力があったと思います。ベトナム戦争について、当時19歳で実際に戦闘に参加した米退役軍人マヌス・キャンベルさんは80歳を過ぎたいまも語り続けています。「皆さんに伝えたいのは戦争の悲惨さです。全てを失い、痛みだけが残ります。どんな侵略にも本当の勝利などありません。何の罪もない人々が常に戦争の犠牲者です。退役軍人の家族はベトナムも米国もなく、苦しみを背負わざるを得ないのです」
*テト攻勢とは、ベトナム戦争において1968年1月30日夜から展開された北ベトナム人民軍及び南ベトナム解放民族戦線による、南ベトナムに対する大攻勢でこの完璧な奇襲は、ニュースで世界中に放映され、結果的にベトナム戦争最大の転機となりました。「テト」とは「節」という漢字のベトナム語読みで、ベトナムの旧正月を指します。
ダナンという地名は、以前ベトナム中部から南部にかけて栄えたチャンパ王国の言葉からきており、大きな川の入り江という意味です。ダナン港がホイアンに代わり商業港として開発されるようになったのは18世紀初頭からです。その後、フランスの植民地となってからは、都市名をトゥーラン(Tourane)と変更され、20世紀初頭にはヨーロッパのスタイルが導入され、社会インフラや製造技術の導入が図られるようになりました。結果、農業生産、小規模工業、輸出向け製品加工(茶、食品、飲料、氷、アルコール、魚醤、乾燥魚)、造船・修理、サービスなどの分野の経済活動が盛んになり、サイゴン(現在のホーチミン市)やハイフォン(北部の主要港)と並ぶ重要な貿易センターになっていったのです。しかし、その後ベトナム戦争が開始されると様子が一変します。1965年には米軍が上陸、ダナンは南ベトナム軍の傘下に組み込まれていきます。戦争が終結し1975年にベトナムが完全に独立すると、ダナンは再興に向けて動き出します。特に1986年のドイモイ政策の採択後は徐々に発展が進み、現在の繁栄につながっていきました。
【ホイアン/Hoi An】
ダナンから約30kmトゥボン川の河口に位置しています。かつては、東南アジア随一の港町として栄えたこの街は1999年に「ホイアンの古い街並み」として、ユネスコ世界文化に登録されました。ホイアンはチャンパ王国(4世紀~)の港としてつくられた街で、16世紀にフエに広南阮氏政権が樹立され、ホイアンを拠点に対外貿易に力を入れたことで国際貿易港として発展をとげました。大航海時代に東南アジア有数の貿易港であったホイアンには中国、日本などアジア諸国に加え、ポルトガル、オランダ、フランスなど欧米諸国からも多くの商人が来航しました。1600年代には日本人街が栄え、その痕跡が来遠橋(日本橋)、日本人のお墓、などに残っています。日本の商人は、銅、銀、硫黄、刀などを当地に持ち込み、生糸、絹、アロエ、乳香、鮫皮、黒砂糖、蜂密などを買いつけ日本に持ち帰ったようです。日本人のお墓は現地の人々のご厚意により綺麗に保持され守られています。現在も、ホイアンのシンボルとして市章に使われる来遠橋は屋根のついた木造の橋で、橋の中には小さなお寺があり、かつて日本人街の入り口にあったため「日本橋」と呼ばれるようになったと伝えられています。江戸時代の日本の鎖国により日本人街が衰退した後、中国人街が中心となり繁栄が続きますが、1771年にグエン朝に反乱したタイソンの乱により街は全焼、現在残る街並みは1800年代以降に建設されたものです。異なる文化を受け入れ発展した異国情緒あふれるホイアンを歩くと、多様な文化を見事に融合させたベトナムの懐の深さを思います。
【フエ/Hue】
ダナン中心部から約100km車で約2時間30分。ベトナム最後の王朝が置かれた地として、紫禁城を模してつくられた王宮や庭園など数々の遺跡が残されています。当時の様子をしのばせる雰囲気に満ちたベトナムを代表する観光地です。宮廷料理やフエならではの名物料理も魅力です。いまのベトナムは北部ハノイに首都を置く南北に長い国土を持つ国ですが、実は一昔前は北部、中部、南部とそれぞれ独自の政権がありました。18世紀まで中部はチャンパ王国と呼ばれる現存している少数民族のチャム族の祖先が政権を担っていました。しかし、チャンパ王国が勢力を中南部に南下させると同時に、中部は阮(グエン)朝が政権の座につきました。グエン朝は、今から200年以上前の1802年、内乱が続くベトナムを統一させる為に、フランスの援助を受け初代王朝(ザーロン帝)が創設しました。その後1945年までの143年間、13代の皇帝にわたって統治されてきました。王宮建設から始まり、各皇帝の個性に合わせた建築様式による寺院や帝陵が今もフエ市内に点在しています。歴代皇帝は、それぞれ価値観も異なり、中には増税や贅沢な暮らしをしていた為、評判が悪かった皇帝もいたそうです。中部フエもまたベトナム戦争の激戦区となりました。最も被害を被ったのは阮朝王宮です。世界遺産に登録されたことをうけ、現在は序々に復元作業を行っています。1802年~1945年の143年の間は、日本では江戸幕府から明治維新、第二次世界大戦があった時代です。
ベトナム第3の都市ダナンは、現在では約100万人の人口を抱える大都市。19世紀、フランスが総督直轄市としてダナンに目を付け、20世紀に入ると急速にインフラが整備されるようになり、ハイフォンやサイゴンと肩を並べる主要な貿易港へと発展していきました。 続いて、米国も重要拠点としてダナンに注目するようになり、1965年には米国海兵隊が上陸し、ベトナム戦争が一気に本格化。 この時代背景は実に複雑で、簡単に説明、理解できるものではないようです。ベトナム戦争が最も激しさを増す1968年には、南ベトナム解放民族戦線がフエやダナン駐留米軍などへ大規模な攻撃を仕掛けた「テト攻勢」が激戦の一つとして知られています。この正真正銘の奇襲攻撃をきっかけに、それまでくすぶっていた反戦の世論が、一気にアメリカ全土で燃え広がり、米軍の「名誉ある撤退」による戦争終結を模索することを余儀なくされるのです。1973年1月29日にニクソン大統領は米国民にベトナム戦争の終結を宣言。米軍が撤退がし、同年7月、南北ベトナムの統一とベトナム社会主義共和国の樹立が宣言されました。北ベトナム側の推定戦死者数は117万7千人、南ベトナム側は28万5千人。そして南北合わせた民間人の死者数458万人以上にのぼりました。戦後ここまで復興し普通の暮らしを手にいれるまで、人々の凄まじい努力があったと思います。ベトナム戦争について、当時19歳で実際に戦闘に参加した米退役軍人マヌス・キャンベルさんは80歳を過ぎたいまも語り続けています。「皆さんに伝えたいのは戦争の悲惨さです。全てを失い、痛みだけが残ります。どんな侵略にも本当の勝利などありません。何の罪もない人々が常に戦争の犠牲者です。退役軍人の家族はベトナムも米国もなく、苦しみを背負わざるを得ないのです」
*テト攻勢とは、ベトナム戦争において1968年1月30日夜から展開された北ベトナム人民軍及び南ベトナム解放民族戦線による、南ベトナムに対する大攻勢でこの完璧な奇襲は、ニュースで世界中に放映され、結果的にベトナム戦争最大の転機となりました。「テト」とは「節」という漢字のベトナム語読みで、ベトナムの旧正月を指します。